カフェ ドゥ ヴィオラ
0歳から25歳までの私(1)
姉妹でのコンサート活動が2011年には25年目を迎えます。
生まれたばかりの赤ちゃんが25歳!この年月を思うとギョっとしますね。
自分も同じく25歳、年を重ねているのですから(当たり前の事ですが・・・)
今回のカフェ ド ヴィオラは私が生まれてから25歳になるまでの月日を、何回かに分けてご紹介してまいりたいと思います。神奈川県川崎市で生まれた私は超安産だったようです。母の話では母が畑仕事をしている時に陣痛が始まり、もうすぐにでも落ちてしまいそうな位(?!)安産だったという事です。 大らかで暢気(自分で言うのも変ですが 笑) 典型的なO型!と言われるのはこの時からかもしれませんね。母曰く「手のかからない赤ちゃんだった」ようです。物心つきはじめた頃、父の仕事の関係や戦争の事もあり私達は群馬県桐生市に疎開しました。兄が小学生、私は幼稚園児でした。桐生は絹織物が盛んな所であちこちから機織り機械の音が響いていました。我が家は引っ越しが多く妹が生まれたのは桐生市の広い庭と離れのある大きな家でした。
歳が離れていますので私は妹と遊ぶより、いつも兄の後を追いかけて、自転車ごと川に落ちてしまったり、(この時のきずは今もおでこに残っています)男の子のような遊びに夢中の張り切りガールでした。桐生市から又父の仕事の関係で横浜市鶴見区に引っ越してきて豊岡小学校に編入しました。
ある日学校の講堂で秋の発表会に向けてフンパーデイング作曲の子供のためのオペラともいえる「ヘンゼルとグレーテル」をひばり児童合唱団が稽古をしていました。夕食の時間にも戻らないで父が迎えに来て、この時の私の様子を見て母に「やっぱり祥子は歌が好きなのかもしれない」と合唱団に入れてくれました。桐生にいたとき幼稚園の先生が「祥子ちゃんは良い声をしているから歌を習わせたら?」と言っていたそうです。 一人留守番ができずいつも一緒にお稽古場に付いて来ていた妹がすぐ続いて合唱団に入りました。という事で二人が皆川和子先生に教えていただくことになりました
生まれたばかりの赤ちゃんが25歳!この年月を思うとギョっとしますね。
自分も同じく25歳、年を重ねているのですから(当たり前の事ですが・・・)
今回のカフェ ド ヴィオラは私が生まれてから25歳になるまでの月日を、何回かに分けてご紹介してまいりたいと思います。神奈川県川崎市で生まれた私は超安産だったようです。母の話では母が畑仕事をしている時に陣痛が始まり、もうすぐにでも落ちてしまいそうな位(?!)安産だったという事です。 大らかで暢気(自分で言うのも変ですが 笑) 典型的なO型!と言われるのはこの時からかもしれませんね。母曰く「手のかからない赤ちゃんだった」ようです。物心つきはじめた頃、父の仕事の関係や戦争の事もあり私達は群馬県桐生市に疎開しました。兄が小学生、私は幼稚園児でした。桐生は絹織物が盛んな所であちこちから機織り機械の音が響いていました。我が家は引っ越しが多く妹が生まれたのは桐生市の広い庭と離れのある大きな家でした。
歳が離れていますので私は妹と遊ぶより、いつも兄の後を追いかけて、自転車ごと川に落ちてしまったり、(この時のきずは今もおでこに残っています)男の子のような遊びに夢中の張り切りガールでした。桐生市から又父の仕事の関係で横浜市鶴見区に引っ越してきて豊岡小学校に編入しました。
ある日学校の講堂で秋の発表会に向けてフンパーデイング作曲の子供のためのオペラともいえる「ヘンゼルとグレーテル」をひばり児童合唱団が稽古をしていました。夕食の時間にも戻らないで父が迎えに来て、この時の私の様子を見て母に「やっぱり祥子は歌が好きなのかもしれない」と合唱団に入れてくれました。桐生にいたとき幼稚園の先生が「祥子ちゃんは良い声をしているから歌を習わせたら?」と言っていたそうです。 一人留守番ができずいつも一緒にお稽古場に付いて来ていた妹がすぐ続いて合唱団に入りました。という事で二人が皆川和子先生に教えていただくことになりました
この頃ひばり児童合唱団はコロムビアレコードの専属になっていてレコード童謡として新しく作られた曲等のレコーデイングをしていました。毛糸のベレー帽のような帽子をかぶったサトーハチローさんやまだ学生服を着ていた中田喜直さん等、たくさんの作詞家、作曲家が作品を書いていました。ラッキーなことに入団した次の年オーデイションがあり私は合格!合唱団がレコーデイングをする時ソロをさせてもらえるようになりました
いよいよ童謡歌手安田祥子の誕生です!
合唱団のお稽古は今のようにミュージックテープ、録音機等ありませんから皆川和子先生の歌うのを聞いて覚えて歌うという方法でした。
先生はとっても厳しく歌に対する表現力、表情術、さらに言葉の明瞭度はもちろん明暗など 小学生の私達にはかなり高度な技術を求めていたような気がします。泣いて帰って来る事も何度もありましたから…
怖かったけど時には優しくて輝いていらした先生の写真を見て下さい。 (写真A)
いよいよ童謡歌手安田祥子の誕生です!
合唱団のお稽古は今のようにミュージックテープ、録音機等ありませんから皆川和子先生の歌うのを聞いて覚えて歌うという方法でした。
先生はとっても厳しく歌に対する表現力、表情術、さらに言葉の明瞭度はもちろん明暗など 小学生の私達にはかなり高度な技術を求めていたような気がします。泣いて帰って来る事も何度もありましたから…
怖かったけど時には優しくて輝いていらした先生の写真を見て下さい。 (写真A)
小学校4年生から高校2年生位まで ひばりに所属し、夕食も忘れて見ていた「ヘンゼルとグレーテル」では「露の精」 (写真B) を歌い オリジナルオペレッタ「魔法の笛」では王子を、「みにくいあひるの子」でも成長して美しい白鳥になった王子 (写真C) を歌いました。レコード童謡も沢山歌い シンセサイザーのパイオニアといわれた富田勳さん作曲の「ゆかいな町の風船やさん」はわたしのデビュー曲になりました。 (写真D)
ラジオ全盛時代 テレビの試験放送時代を経験し「少女」「少女クラブ」「少女ブック」「女学生の友」等。
今でいうアイドル、まさに安田祥子アイドル時代。この頃のお話は次回をお楽しみに。
2010年 11月
ラジオ全盛時代 テレビの試験放送時代を経験し「少女」「少女クラブ」「少女ブック」「女学生の友」等。
今でいうアイドル、まさに安田祥子アイドル時代。この頃のお話は次回をお楽しみに。
2010年 11月